第11回 『赤光』をよむ/同世代歌人の歌をよむ


◆日時 2015年9月13日(日)13:00~17:00

◆会場 川崎市産業振興会館

◆出席者 鷺成(司会)、千、鳩虫、もがな、海智(書記)


第一部 斎藤茂吉『赤光』をよむ(4) 発表者:鷺成

【概要】

明治44年~45年の歌について、

Ⅰ 歌の素材や語彙

Ⅱ 語と語の関係

という二つの視点から歌の鑑賞を試みた発表であった。


【詳細】

Ⅰ.歌の素材や語彙


Ⅱ.語と語の関係(シンタックス)に着目した鑑賞

言葉の屈折

語順を入れ替える(単語を逆転させる手法、倒置)、同じ意味や語句を繰り返す(リフレイン)、挿入句といった方法によって、歌にねじれ・ひねりが生じているとのこと。

句切れが複数ある歌

一首の中に二重、三重の文節が生まれ、歌が重層化される。

歌の重層性については、茂吉にかぎらず、各時代で様々な人がしていることは周知のとおり。

 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  藤原定家

→三句切れは古今・新古今(定家)の時代から長く続いてきた手法であり、上句と下句の上下の関係をどのように結びつけるかが作歌の基本態度のひとつであった。

 では時代が下るとどうなるかというと…


 革命家作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  塚本邦雄

→1950年代に詠まれた歌。上句は、戦後の革命家のアジテーションの言葉や、ポピュラーソングの大衆化する言葉が氾濫するなかで、芸術もまたその大衆化の流れに凭れかかっている状況のことだろうか。そこに、ピアノが液化してゆくという不思議なイメージのとりあわせ。

  全く関係はないけれど、一首の中につながって詠まれている。離れたものを一首の中に取り合わせ、ぶつける(二物衝突)。


茂吉の場合は、

《斎藤茂吉》 たたかひは上海に起こり居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり

→上と下で違うものを扱う非連続性が、モダニズム、新しさであるといえる。これまでのアララギの流れとは趣を異にしている。

 例えば伊藤左千夫の歌

《伊藤左千夫》 天地のめぐみのままにあり経れば月日楽しく老も知らずも

であれば、「あり経れば」を、茂吉ならいったん切るような気がする。

それを切らずに一首を自然な流れのままに作るのがアララギの主流であり、こうした歌をみるとここまで茂吉が歌を切るのは異常なことだと思える。


【発表後】

発表内容について、解釈や語句の意味など、細かな部分でやりとりがあったが、ここでは割愛する。

特に議論になった箇所は次の2か所。


猫の舌のうすらに紅き手の触りのこの悲しさに目ざめけるかも

→訳しづらい。

 海智 「猫の舌がうっすらと紅くなっているそれに触れた手の感触によって、この悲しさに目ざめたことだ」と訳してはどうか。

 鷺成 「~によって」とすると、原因と結果の関係が出過ぎて歌が理屈っぽくなる。

 鳩虫 この歌がわかりづらいのは一瞬の感覚を歌っているからで、自分のなかでも整理された内容であればもっとわかりやすい歌になっているのでは。

 

長鳴くはかの犬族のなが鳴くは遠街にして火は燃えにけり

生けるものうつつに生ける獣はくれなゐの日に長鳴きこゆ


千 この二首は、リフレインによってどういう効果が出るのか。

鳩虫 言葉を引き出すような働きを持っているのでは。

   一首目では、犬の遠吠えが聞こえたのをそのまま詠み、その犬族が長鳴きをするのは、と続けている。

海智 この歌は、他の歌と全然違う感じがする。それは、長鳴きという言葉が二回入っていないと出ないよさである。言葉を引き出すといった効果で考えるまでもなく、この歌の異様さ、圧倒的な存在感には、この表現が絶対に必要で、これがないと歌の良さが損なわれる。

千 勢いが出る感じがしますよね。

海智 そうですそうです、その勢いみたいなものが大切だと思います。

リフレインが成功するか否かは、その表現の必然性というか、一首全体としていいと感じられるかどうかにかかっており、それ以上でもそれ以下でもないような気がする。理屈ではなく、感覚の問題。



第二部 発表者:千

【概要】

千さんが現時点で気になっているテーマをいくつか取り上げ、それについて皆で話し合った。

今回取り上げたテーマの中からさらに内容を絞り、次回より詳しい内容が発表されるとのこと。

今日の発表では、ガルマン歌会という、八雁とは全く違う形態を持った歌会についての発表が主であった。


千: 「孤独であること」が文学の本質なのではないか。内的な衝動、やむにやまれぬ気持ちから生まれるのが芸術なのであって、こういう歌会の形を見ていると、短歌というツールを使って人とつながりたいだけなのではないか、コンペマニアのようになっているのではないか、という疑念を抱いてしまう。生理的な違和感・嫌悪感を覚える。


鷺成: 創作の場が、コンペマニアとか、ショーレース化している現状は、例えば短歌賞受賞のためのマニュアル本が出ているなどということからも明らかで、そういう「狙った歌の作り方」について疑問を抱くことは分かる。

一方で、ガルマン歌会のような形があってもいいと思っている。ゲーム感覚で、駄目だったときは「次こそ勝つぞ!」みたいな体育会系なノリがある。それはそれとしていいのでは。

   大人数の歌会なので、「こういう歌を作ろう」という特定の価値観に凝り固まる危険性は低い。むしろ八雁の歌会のほうが特定の人の良しとする価値観に、皆が染まる危険性は高いのかもしれない。


【書記より】

作歌の動機、純粋に芸術を求める気持ちというのが千さんの問題意識から感じ取れたように思います。

今はたくさんの方法で短歌が自由に楽しまれています。自分がどういうスタンスで歌と向き合うか、ということについては、私たち自身が常に自問自答すべき問題です。こういう話ができたのは意義のあることだと感じました。