6回「白秋をよむ」 ―『桐の花』(6)最終回―

 日時 2015311317

 会場 川崎市産業振興会館

 出席者 鷺成(司会)、千、もがな、悠、ゴン太君、海智、鳩虫 (敬称略)

 


今回からは、前半・後半に分けて行う。前半は、「Ⅰ 哀傷篇序歌」から「Ⅳ 哀傷終篇」までを、前回までと同様、各人が気になった歌を挙げ、感想や意見を交換した。後半は発表者(鷺成)が同世代の作品を取り上げ、問題提起をした。『桐の花』を最後まで読み終えるのが目標になっていたため、後半の発表は終了前20分という短い時間で、発表内容を紹介した。発表の続きは、次回(329日)に持越しとなった。

 


前半、各自が選んだ歌とコメントは、以下の通り。

 


Ⅰ 哀傷篇序歌


   二

 


自棄二首

 


あだごころ君をたのみて身を滅(おと)す媚薬の風に吹かれけるかな

 


悠:素直。小説のように展開し、ストーリーができあがっていく。

 


ゴン太君:いい歌。特に「媚薬の風に」が好き。

 


哀(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちをなげやりにする

 


悠:「きよきいのち」は自分か? 二人の人物の関係ができていく過程での、あえての投げやりな表現。

 


   三

 


     花園の別れ六首

 


   君と見て一期(いちご)の別れする時もダリヤは紅(あか)しダリヤは紅(あか)し


君がため一期(いちご)の迷ひする時は身のゆき暮れて飛ぶここちする



哀(かな)しければ君をこよなく打擲(ちょうちゃく)すあまりにダリヤ紅(あか)く恨めし



紅(くれなゐ)の天竺牡丹ぢつと見て懐妊(みごも)りたりと泣きてけらずや



身の上の一大事とはなりにけり紅(あか)きダリヤよ紅(あか)きダリヤよ



われら終に紅(あか)きダリヤを喰ひつくす蟲の群かと涙ながすも

 


鷺成:「ダリヤ」の表すものが微妙に変化していっているように思う。一首目の「ダリヤは紅し」は花園に来てから別れを告げるときまで辺りに咲いているダリアの情景で、三首目の「あまりにダリヤ紅く恨めし」は打擲してしまう自分を責任転嫁しているし、五首目の「紅きダリヤよ」は呼びかけている。「ダリヤ」の赤さに心を寄せようとしながらうまくいかない、そういう感傷に浸っている。 


ゴン太君:「紅きダリヤよ」のリフレイン。たくさん咲いている感じがする。

 


千:二首目の「身のゆき暮れて飛ぶここちする」は、意識的に乖離状態になる一瞬。

 


千・ゴン太君:ここの「飛ぶここち」は六首目の「蟲の群」と重なる。

 


悠:「飛ぶここち」は地に足がつかない状態。はっきりしない、弱さがある。

 


Ⅱ 哀傷篇


   一


     恋しき日苦しき日七月六日


   鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり

 


鷺成:前の「ダリヤ」は、暗喩的で、色合いを伴なうことで感情が際立っていた。今度は、自分を鳥籠の中の鳥になぞらえているんだけど、「鳥のごと」の直喩は付き過ぎていてあまり面白いとは言えない。

 


鳩虫:「七月六日」という詞書。記念日が好き?

 


   二


   かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫道(こいしみち)

 


鳩虫:「みち」という音を三回も繰り返している。言葉遊び。法に触れ、監獄に入れられる。厳しい現実を歌っているけれど、どこか呑気。

鷺成:そういう感じはする(笑) 舞台装置が整っているからかな。「みち」のリフレインは、人道、「牢獄」に向かう道、実際に眺めているじゃり道と、抽象的なものから具体的なものへと移っているんだけど、啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の視点の移動とも違う。このリフレインの部分をはずすと、「かなしきは」と「馬車の軋みてゆく」が残る。悲しさが揺れているという着想があって、そこに三つの「みち」を配した感じがする。


 


   三

 


     うれしや監獄にも花はありけり

     草の中にも赤くちひさく

 


   しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花



ゴン太君:「爪紅の花」でも、うたっていることは、ダリヤと変わらない。

 


   五


     テテツプツプツ

     弥惣治ケツケ


   日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする

 


     *柳河の童謡、テテツプツプは鳩ぽっぽのこと

 


鳩虫:言葉遊び。童謡のようなすでにできている形のなかに感傷をこめる。

 


鷺成:「物おもはする」という結句、白秋はしばしば使うけど、他の句によって色合いが異なってくる。

 


   



バリカンの光うごけばしくしくと痛(いた)き頭(かしら)のやるせなきかや

 


悠:外見を気にしていそうな白秋。悪いことをして髪を切られることと、「しくしくと」という痛みや、次の歌の「頭あづけて」という表現が合っている。

 


バリカンに頭(かしら)あづけてしくしくとつるむ羽蟲を見詰めてゐたり

 


ゴン太君:「つるむ羽蟲」。情事や生命の本質的な営みが詠まれている。蟲に食べられる先のダリヤの歌も同様。

 


悠:「つるむ羽蟲」は、自由な蟲と罰を受けている自分との対比。蟲は自由の象徴。

 


鷺成:嘱目のように作られた歌だろう。

 


もがな:全体的に嘱目。見たものをそのままうたう。極まって、笑いも入れてしまうような、余裕のなさ。後になれば「だから何?」と言いたくなるようなものまで歌ってしまう。

 


   


   夕されば入日血のごとさしつくる監獄(ひとや)うれしや飯(まま)を食(た)べてむ

 


千:監獄で作っているような感じがしない。回想や脚色。正確さを感じない。

 


鷺成:夕日が血のように赤く、嬉しい。深い意味があるんだろうか。

 


   十二


     法廷へのゆくみちにて


向日葵(ひぐるま)向日葵囚人馬車の隙間(すきま)より見えてくるくるかがやきにけれ

 


海智:「ひぐるま」と「馬車」と「くるくる(来る来る)」。車輪とくるくる回るイメージをかけている。この「けれ」は?

 


鷺成:已然形は強調。文法的にはそうならないが、茂吉なんかもよく使う語法。「向日葵」がくるくる回るって、西洋由来な気がするけれど(ゴッホ?)、どうなんだろうか。

 


Ⅲ 続哀傷篇


   一


空見ると強く大きく見はりたるわが円(つぶ)ら眼に涙たまるも

 


鷺成:出獄後の空は、監獄の居たたまれなさと対比させている。構成の意識が強く働いている。

 


   


     木更津へ渡る。海浜に出でて

     あまりに悲しかりければ


   いと酸(す)き赤き柘榴(ざくろ)をひきちぎり日の光る海に投げつけにけり

 


悠:自棄や焦燥感。

 


もがな:青春ぽい。

 


   驚きて猫の熟視(みつ)むる赤トマトわが投げつけしその赤トマト

 


ゴン太君:先の柘榴も、この歌のトマトも夏の果実。性的なものを表している。どちらも投げつけていて、同じモチーフに見える。現在の私達なら、こういう重複は避ける。

 


鳩虫:「柘榴」は無為。「赤トマト」は動物いじめ。異なるのでは?

 


   


   あかあかと騒(さや)ぎ廻りそ人力車夕日に坐り泣く男あり

 


鷺成:いい歌。人力車に、騒ぎ立て廻らないで欲しいという。三句切れ。いい歌。出獄後のほうが、投獄中より落ち着いている。

 


   


心心赤き実となり枝につく鴉食(は)まむとすはぢぎれむとす

 


もがな:ここでも赤い色が出てくる。「ダリヤを喰ひつくす蟲の群」の歌に近い感じがする。自然と、実がついた。


悠:「心」は白秋の心。結実しても鴉に食べられ、あるいは、はち切れる。

 


     暴風雨来りぬ面白きかな面白きかな


   柿の赤き実隣家(りんか)のへだて飛びこえてころげ廻れり暴風雨(あらし)吹け吹け

 


ゴン太君:「隣家」は世間や困難の比喩。不倫相手の家。

 


鷺成:どこまで現実を象徴しているか。

 


 (文責:鳩虫)